障害者を重視するポイント

障害者を重視するポイント

すべてが本人たちの自主的な運営で進められ、どう展開するかは指導教師たちにも全く分からないことである。 何もいえないのでは、という周囲の危倶をよそに、青年たちは堂々と、あるいは立往生しながらも自分の主張を述べるのである。
かつて障害児教育担任教師の研究会、全日本特殊教育連盟の新潟大会で、精神薄弱者本人を壇上に迎え、座談会形式で意見発表をさせ、話題になったことがある。 その後、なぜか同様な試みが行なわれていないのは残念である。
私も国際障害者年日本推進協議会が福祉映画祭を聞いた際、映画に出演した精神薄弱者本人をパネラーに招いてシンポジウムを聞き、成功した体験を持っている。 七夕に思い思いの願いを込めて、スウェーデンやデンマークには、手で行なっている。
1982年にケニア共和国ナイロビ市で聞かれた第8回世界精神薄弱者育成会連盟世界会議には、スウェーデンなどから、精神薄弱の人たち自身が初めて30数名参加、彼らによるパネル・ディスカッションが行なわれ、その意見発表は参加者に大きな感銘を与えたという。 重度の精神薄弱の人たちは、何もいえない、何もいわないのではなく、何もいわせてもらえなかったのではないか。
発言する場を、その機会を早くから数多く用意するならば、必ず自己主張をするはずである。 重度の脳性マヒの人たちが、電動タイプやワープロという表現手段を持ったとき、私たちはその心を知ることができた。

最近は、文字を入力して音声言語が出力できるトーキング・エイドを利用して、意見発表もできるようになった。 新しいコミュニケーション機器の開発は、障害者の社会参加への新しい道を聞きつつある。
重症心身障害児といわれる最重度の障害児の場合でも、そのボディー・ランゲージを解読できるならば、そのねがいを知ることができるはずである。 精神薄弱者本人たちの組織があり、さまざまな活動を自ら障害者の社会参加は、単に街に出ることや自立生活を営むことにとどまっていては不十分である。
当事者として、政策立案に参加するまでにならないと本物ではない。 そのためにも発言の場と手段を保障することが重要である。
子どものねがいを知る表現する障害児先生はお金もうけのために学校にきているのですかそれとも子どもが好きで学校にきているのですかぼくはそれがいちばん知りたいすぐる神戸市で地域作業所「えんぴつの家」を聞いたOさんの座右の銘である。 神戸市立青陽東養護学校の校長時代に、生徒からもらった手紙である。
精神薄弱児であればこそ、うそいつわりのない気持ちを、じかにぶつけてきたのであろう。 すぐれた詩人であり、精神薄弱児教育の先駆者であったKさんは、こんなことを述べている。
「子どもの教室は、子どもが一番大切にされる場所ですから、子どもの考えがとり入れられ、子どもの求めるところにぴったり合うように工夫しなければなりません。 そこで、まず考えなくてはならぬのは、この子どもたちが、その生活の場である教室をどのようにしたいというねがいやのぞみを持っているか、ということです」(障害者教育・福祉合宿研究会報告書』1967年)障害児学級が校舎の片隅に追いやられていた1940年代に、Kさんはすでに、子どものねがいを教育の中心にすえることを主張し、実践していた。
現在の教室や学校が、子どものねがいや考えを、どれだけ取り入れて経営されているだろうか。 学校という入れ物に、教育行政という枠の中に、子どもを押し込めていることはないのだろうか。
学校のための子ども、教師のための子どもにしてはいないだろうか。 Kさんは、子どもの表現を大切にし、「精神薄弱児も詩らしいものが書ける」と早くから主張していたが、埼玉県本庄市立藤田小学校の障害児学級を担任していたOさんは「精神薄弱児にこそ児童詩を」と呼びかけていた。
Oさんが初めて障害児学級を担任することになったとき、「私に障害児学級の担任ができるだろうかと先輩に相談すると、「障害児の担任は、だんだんその子に似てきて、いい先生になるんだよ。 あんたのように、はじめから似ているのはどうかねえ」と心配されたという。
子どもたちも本当に自分たちの仲間と思っていたらしい。 ある子は卒業してから、どこで聞表現する障害児いてきたのか、Oさんに告げにきた。
「パカ教えんの、バカじゃできないんだとな。 おらあ、先生もバカだと思ってた」Oさんの授業は変幻自在であった。

教室を放り出して、利根の河原にでかける。 空飛ぶトンビを見ていたかと思うと、校庭の片隅でフキノトウの呑りを確かめている。
そんなとき、口をついて出てくる子どもたちの感想を板書していくうちに、子どもたちの詩が生まれていった。 いつまでも字を書こうとしなかった千栄子が、ある日、詩を書いてきた。
「せんせい、C、さくぶん、かいてきたよ」神様だって読めない、のたくりがノートに書かれている。 Cが精魂こめて書いたこの詩が読めなければ、担任のかいがない。
Oさんの頭の中を、昨日のCの姿がせわしくかけめぐる。 祈るような気持で読み下す。
「Rちゃんとあそびました。 じんじゃで、しいのみをひろいました」Cは、わが意を得たりとにっこり笑い「C、さくぶん、だいすき。
あしたも、かくよ」。 2年後、Cはこんな詩を書いてきた。
あしたてんきになあれCのくつがまっすぐあしたはなわとびおちたいいおてんきだできるできる(この項の詩と「」の部分は、O著『詩の生まれる日』民衆社、1978年、から引用)このCの詩に、校長のO先生がすぐに作曲してくれた。 Cの持ち歌になった。

校長先生はひまさえあれば、アコーディオンを持ってO学級にやってきた。 そして子どもの書いた詩に曲をつけ、1人1人の子どもに持ち歌を作ってくれた。
そのCが中学に進むと、あれほど好きだった作文を書かなくなった。 校長先生に持っていっても、歌にしてもらえなかった、と寂しそうな口ぶりだったという。
いまCは、群馬県のある温泉町のまんじゅう屋で働いている。 そしてまた、O先生に毎週1回は「作文」を送ってくるようになった。
「なにもとりえはないけれど、作文かくことはすき。 作文はだれにもまけないとおもっている。
にんげんがいやになって、しんでしまいたいとおもうこともある。 だけど作文かくとやすらぐ。
先生ありがとう」(「朝日新聞1987年1月4日付「あったか砂漠」)」、と中学校での3年間は、Cにとって空白の時間だったようだ。 だがO学級での6年間は、Cに生きる力を確実に植えつけていた。
養護学校と普通学校表現する障害児障害児の教育はどうあるべきなのか、1979年に養護学校義務制が実施されて以来、論議が絶えない。 適正就学を強調して、障害の状態に配慮した教育のできる養護学校就学を指導する教育委員会と、インテグレーションを主張して、普通児との統合教育を要求する親たちとの聞に、さまざまな対立が起きている。

ときに警察権力が介入するといった、あまりにも非教育的な異常事態すら発生している。 マスコミは障害児の普通学校入学をめぐるトラブルや、障害児を受け入れた普通学級での友情美談を好んで取り上げるが、事はそれほど単純ではない。
ここで教育問題を取り上げるつもりはないが、「養護学校か普通学校か」の二者択一では解決できない例が多い。 障害児本人や親は、より複雑な状況の中に置かれていることを示している親の手記を紹介して、読者の判断を仰ぎたい。

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